舞根湾の「唄い込み」が戻ってきました。

津波の前、毎年1月15日のどんと祭の夜には舞根の湾に子供たちの歌い上げる「大漁唄い込み」が響き渡っていました。

大漁と漁の無事、家内安全を祈って、昔からこの舞根湾に受け継がれてきた正月の行事「唄い上げ」、この地区では「ヘイヨーエー」とも呼んでいます。「ヘイヨーエー」とは漁師が海で櫓を漕ぐ時の掛け声。

「ヘイヨーエー(♪ ♪ ♩)! ヘイヨーエー(♪ ♪ ♩)!」。

この湾に住む子供たちの体には、この独特の海のリズムが刻み込まれているかも知れません。

子供たちのグループを船に見立てて「一艘、二艘」と数え、船頭は大きな子供たち。大きな大漁旗を振りながら、小学校一年生から高校三年生までの男の子たちが一軒一軒、山の上から海のそばまで広がる五十数軒をまわります。

皆で元気に「まつっしいま〜〜あ〜の〜♪」(松島の、、、)と歌いながら、自分たちで作った鯛をかたどった半紙の切り紙をお盆にのせ、「お晩でございます!」と各家庭を回ると「よぐ来た!よぐ来た!」とご祝儀やお菓子、みかんや温かい甘酒などを振る舞ってくれます。

家によっては「おっかない」じいさんがいて、「歌っこの声がつうせえなあ!(小さいなあ!) ほれっ!もう一番歌ってがい!」などと気合を入れられることもしばしば。

子供たちも「あそごのじいさん、おっかねえがら、おめえ鯛っこ持ってげよ!」などと押し付けあって戦々恐々としたものです。

三十年前ほどまでは湾には街灯も少なく、懐中電灯だけでしたので、「おっかねえなあ!おっかねえ!」と言いながら、小さい子供たちの手を引いては走って回ったりもしました。

鯛を切ったり、唄い込みのスタート・ゴール地点は、海のそばにあった「瀬織津姫(せおりつひめ)神社」の社(やしろ)の中。一月の寒い深夜に唄い込みが終わり、子供たちが社にみんな集まって、床板に立てたロウソクの灯りだけで頂いたご祝儀やお菓子などを皆で分けっこします。

大きな子供がリーダーとなって、
「おめえんどごは兄弟が多いがら多めにやっから!」
「お盆っこ持って来てけだお前んどごさは少し足すがらな!」「旗っこ振って疲れだべ!お前さは多めにやるがらな!」
など、子供たちだけの独自ルールで、皆が納得するような分配がされていました。

子供時分に、平等や小さな子への思いやり、家を回るときの礼儀や感謝などを学んだのも、この唄い込みの時だったかもしれません。

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昔から舞根ではこの「瀬織津姫神社」を「ずでんさま」と呼んで、大切に大切に受け継いできました。事ある毎に住民が集まって、社で催しや集会などを開いたり、踊りや歌の発表などをしたりと、この地区の集会所的な役割も持っていました。

その「ずでんさま」も、一昨年の津波で跡形もなく流されてしまいましたが、昨年末、お宮の寄贈を受け、新しい社(やしろ)が建てられました。

舞根と歴史的に深い関係にある岩手県一関市室根町の室根山中腹の「室根(むろね)神社」からご神体を分分けていただき、場所は海から奥まったところになりましたが、また私たちの「ずでん様」が戻ってきたのです。

昨年は震災の影響で、この「唄い上げ」も中止ざるを得ませんでしたが、今年は新しい神社ができ、湾の瓦礫なども撤去がおおむね済んだことから、復興の祈りを込めて再開することになりました。

震災前は55軒あった舞根湾沿いの家々も、津波を免れたのはその数、6軒。今は皆、ばらばらの仮設住宅に散らばり、生活を送っています。

湾沿いの子供の数は今、女の子を合わせて6人。今年は子供たちの安全を考えて、父兄たちが見守る中、舞根湾の6軒から始まり、三か所に散らばる仮設住宅を車で送りながらの「唄い上げ」でした。

小雪舞う寒空の中、一生懸命唄う子供たちは今も昔も変わらず、とてもたくましく見えます。

舞根のおんちゃんだぢも、とうさんだぢも、みんな唄ってまわった「唄い上げ」。舞根のおんちゃん、おばちゃんだぢの何とも言えない優しさや人柄は、もしかするとこうして受け継がれてきたのかもしれません。

震災で失なわれかけた沢山の伝統が三陸の浜々にあります。
建物や「形あるもの」だけでなく、これまでの浜の「かたち」を作り上げてきた歴史を何とか引き継いでいけないものか。新しい浜の文化の礎に出来ないものか。

そう心から思い願う、今年の「唄い上げ」でした。

(牡蠣の森を慕う会 畠山耕)

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