「ノンちゃん」 (前編)

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今日は、孫たちのためにタラバガニの「カーニー」を送ってくれた「ノンちゃん」について紹介しましょう。


カキじいさんは男三人兄弟で、ノンちゃんはその末っ子です。

この辺ではおじさんのことをよく「おんちゃん」と呼びますが、カキパパが小さい頃、大好きな仙台の「おんちゃん」のことをうまく言えずに「ノンちゃん」と呼んだのが始まりです。


仙台の大学を卒業し、長い教員生活の後、去年、定年退職したノンちゃんは、その教員生活のほとんどを目の不自由な子供たちの学校、盲学校の教員として過ごしました。

大学の同級生たちのほとんどは校長先生になりましたが、ノンちゃんは最後まで職人としての教員の道を選びました。

そんなノンちゃんには、目の不自由な子供たちの教育について一家言がありました。

「小さい時に“職人業”を持った教員が教育しないと、取り返しがつかないことになる。」

見えない子供たちの空間概念の形成から点字や数の学習までに関わるの盲学校の教員は「職人」であるべきだ、という思いからでした。


ノンちゃんは若い時、身体、脳、目に障害を持った、学校に通うことのできない子供たちの家庭を回っていました。

子供たちとどうやって意思の疎通をするかが問題でした。

ノンちゃんは子供たちのおむつを取り替えながら、その子たちを抱っこして一日中過ごしました。

「ひげに触って遊んでいるその子が、ヒゲが無くなると別人に思うから、、、。」

その頃のノンちゃんはそう言ってヒゲを剃らなくなり、最後にはサンタクロースのようになってゆきました。


当時、障害者教育の先進国は社会主義のソヴィエトと言われており、その文献はすべてロシア語でした。

ロシア語をマスターするには、ロシアに行くしかない。

そこで考えたのが、モスクワの日本人学校の教員になるというアイディアです。

三人のまだ幼い息子たちも、ロシアへ一緒に連れて行く覚悟でした。

ノンちゃんおばちゃんもチャレンジ精神に富んだ人で、“それは面白そうねっ!”とノンちゃんを後押ししました。


校長先生からの推薦状を携え、県教委の面接を終えたノンちゃんは大きな手ごたえを感じていました。

そして臨んだ最後の面接。

東京で文部省のエライ人に会うことになりました。


ハプニングはそこで起きたのです。


【後編へ続く】

畠山重篤



沖に沸き立つ雲の向こうに、今日も夜が明けます

(左:唐桑半島、右:大島)