三陸・関東大震災に寄せて
三月十一日午後二時四十六分。三陸沖を震源とする大地震があり、大津波警報が発令されました。
地震の大きさから三十年以内に九割の確率で起こると言われていた三陸沖津波か、と覚悟を決めました。
私の経験の中で最大の津波は、五十年前のチリ地震津波です。気仙沼水産高校二年の時でした。
ゆっくりとした大きな揺れが続く中、わずかな時間で三台のトラックを高い所に移動させました。チリ地震津波の到達水位よりもずっと高い所です。
やがてあっという間に湾の中の潮が流れとなって引き始め、岸壁の底までが露わになるほどに干上がって行きます。
大きく潮の引いた舞根湾を見ると、みるみる海の水が塊となって膨らんでゆきます。津波の第一波です。
岸壁を勢いよく超えた流れに乗って岸壁の船が次々と陸へ流れ込み、海辺の養殖場の事務所や加工場へものすごい勢いで流れ込んできます。
湾に整然と浮かんでいた養殖筏が水の塊と一緒に次々と湾の奥へと流れ、あらゆるものと絡み合っています。
いつもは水面から7、8mはある牡蠣の水揚桟橋の屋根近くに水が迫った時、これはチリ地震津波とは桁が違うと悟り、高台の自宅の庭まで駆け上がりました。
我が家は海抜25mほどです。
家に残っている家族と高台の自宅から湾をうかがうと、第二波が押し寄せています。
第二波は第一波の数倍の「水の壁」です。舞根地区はほとんどが我が家より低い海辺にあり、ほぼすべての家が海に飲み込まれ、ナイヤガラの滝のようなものすごいスピードの引き波で、轟音と共に一瞬にして蹂躙されてゆきました。
まさか自宅まで、、、とは思いましたが、どこまで上がってくるか来るか分かりません。
三才の孫を抱きかかえ、裏山の藪の中を少しでも高い所へと駆け上りました。ぎゅっと抱き着いている孫の顔も引きつっています。
崖の上から恐る恐る振り返ると、高台の自宅へと続く坂の一番上まで水が来ています。
すべてを覚悟して、更に山の上へ、上へと木々をかき分け、逃げ続けます。
山の上の道には、やっとの思いで逃げてきた人たちが集まっていました。高齢者を車に乗せた人たちが多くいます。
涙交じりで口々に身内の安否を気遣っています。
我が家でも連絡の取れない、学校や幼稚園へ行っている孫たちは大丈夫か。
また、カキパパに聞くと三男が船を沖合に脱出させる、と出て行ったというのです。
津波は沖合では大きな「うねり」ですので、比較的安全なのです。でもそれは時間との闘いでもあります。
押し寄せる波より先に沖に出られたのか。心配です。
夕闇が迫る頃、気仙沼の方向でものすごい爆発音が続き、黒煙が真っ赤に染まった空を覆い始めました。
石油タンクが津波で流され、流れ出した油が燃えているようなのです。空は空襲の様相です。
闇夜にみぞれが降り始め、高齢者が多いことから毛布などを手に入れるため、恐る恐る自宅の様子を見に行きました。
庭先まで水が上がったようですが、何とか大丈夫なようです。たくさんのロープや浮き球などが庭先の木々に絡まって揺れています。
まだ潮は動いていますが、どうやら峠は越えたようです。
その晩から我が家を開放して、三十人ほどの共同生活が始まりました。ほとんどが高齢者、介護が必要な方もいます。
津波から三日目、船で沖に向かったまま安否が確認できなかった三男が、生きて家に帰ってきました。
唐桑瀬戸まで出たものの、第一波に遭遇して大島瀬戸へと押し流され、木の葉のように潮に飲まれる船を捨てて海に飛び込んだそうです。
ものすごい速さの波に乗り、大島へと二百メートルほど泳いで、命からがらたどり着いたところを助けられたそうです。
流れ着いたのは海抜20mほどの家の庭先だったそうです。島からは自衛隊のヘリで避難所へ救出され、ようやく家へとたどり着いたようです。
そのことと引き換えになったのでしょうか。一方でとても悲しいことがありました。
気仙沼市内の特別養護老人ホームにいた母、小雪が津波に巻き込まれてしまったのです。
冷たい水に浸からせてしまいました。泣くに泣けない心境です。
もう十日が過ぎ、陸側の残骸とは対照的に、海は何事もなかったように静かな姿を取り戻しつつあります。
海鵜(ウミウ)が数多く飛来し、盛んに小魚を食べています。
海の生産力には変わりはありません。
何年かかるか分かりませんが、養殖場を復活させようと息子たちと話し合っています。
全国の皆さん、どうか見守っていて下さい。